生出三社の一にして、大古建御名方大神の子孫、当地に移住開発に際し祖神を氏神として奉斎と伝はる。第六十代醍醐天皇の延長七年諸国大洪水にて溺死者多く、農作物皆無に依り国司をして諸社奉幣に際し当社にも奉幣ありと伝はる。宝暦十一年谷村代官江川太郎左衛門が社殿を造営その後、平成元年社殿を改め正遷宮。甲斐国志に一〔生出明神〕法能村本村氏神社地神領除地畑弐畝五歩天文十三年小山田信有ガ文書ニ神藤若狭所蔵宮原ノ大明神彼社ニ於テ竹木ヲ取ルベカラザルトアル是ナリ神刀一振長二尺七寸二分反一寸二分銘甲州都留郡駒橋元近作之天文十七年九月吉日、例祭七月二十五日神主志村大和とある。明治五年村社に列格 同四十年二月十六日神饌幣帛指定神社となる。