本神社は桃園宮の食封の地であったので桃園神社と名付け村名の由来にもなってゐる。慶長八年黒印神領三斗六升、社地三千六百坪を与へられた。明治六年村社に列した。桃園宮といふのは貞純親王のことで京都六条桃園に御所があったためであるといふ、故にこの社を俗称「院の宮」とも呼んでゐる。甲斐国志神社部には若宮八幡宮桃園村となってをり、また甲斐名勝志に桃園村一説として、この地に若宮八幡の祠がありとして内容はほぼ同じである。
また甲斐国志古蹟部に院ノ宮、「貞純親王ヲ祭ル、親王ハ六条桃園ニ御所アリ因テ桃園宮ト称ス此処即チ御領ナリシ故名ヲ得ルト云ヒ伝ヘレドモ若シ是モ葛原親王ヲ訛利タルニヤ」とあって疑問を投げかけ、これについて甲斐叢記に。院の宮桃園清和天皇の皇子貞純親王を祭ると伝・・・中略。其御領なりしによりて村名となれりと云ど、続日本後記に「承和二年四月丙子甲斐国巨摩郡馬相野空閑地五百町賜ニ一品式部卿葛原親王一」と云るに據りて考れば此処も馬相野の内なれば葛原親王を訛たるかと思はるるなり。とあり同書牧の部、八田御牧の中にもこのことにふれてゐるので参考にしたい。何れにしても一連の由緒として意義深いと思ふ。
*赤字は漢文表記