社記の徳川家光の朱印状「下今諏訪村之内井壱石八斗」から天正(一五七三~一五九二)から慶長年代に創建されたことが推測される。当社の勧請については社記の社司齋藤筑後の「上下諏訪神社勧請鎮座之儀ハ往古之事故相分リ申サズ候」の通りである。又元文中(一七三六~一七四一)の棟札に永禄中(一五五八~一五七〇)塚原讃岐守が修理のことを記載した記録があり、上下の諏訪神社の社殿の大改築を行ってゐる。祭神は事代主神であり、建御名方神の兄神を祭神としてゐる。建御名方命の妃神である八坂刀売命は白井河原の「八乙女宮」に祀られてゐるものとの伝承が古くからあり、事実、近年まで例祭月に上諏訪神社の御神輿と「八乙女宮」の御神輿の往来があったことが甲斐国志に記載してあり、兄紙を祭神としたと思はれる。御柱祭は上今諏訪、諏訪神社と同様に寅、申歳に大祭が行はれる。御柱社に向かって右側に上今諏訪、左側に下今諏訪の御柱を建て祭礼は終はる。