甲斐国志によれば「御朱印領二石一斗余、社地方一町余、此祠及下今諏訪祠ハ本州ニ諏訪明神ヲ勧請ノ権輿ナリ故ニ村名トスト云」とあり又「末社ニ春宮、秋宮、御柱宮、雨宮…末社十三蔵ノ社中ニ七重ノ注連縄ヲ張ル…。」この雨宮は中島社と考へられる。形態は信州諏訪大社と同一であり、他の諏訪神社には例がない。更に御柱祭を始め過去には穂屋祭、御射山祭が行はれ、角力神事等これまた信州諏訪大社との縁が深い。又、現在でも例祭前夜祭に十三所社の参道にて往古より行はれてゐる七重の注連を切り祭礼の始めとしてゐる。御柱祭は甲斐国志に「延宝八(庚寅)年(一六七八)マデハ毎七年ニ御柱ノ神事トテ社中ノ木ヲ伐リ御柱社中ニ立テシガ其後中絶スト云」とあり、今から三三三年以前に一度杜絶え、その後再興してゐる。信州と同じく寅、申歳に大祭が行はれ、当日は地域住民の総出は勿論、県内外から親族、崇敬者が大勢集まり、一日かけて上、下 夫々の諏訪神社の地域の里曳きを行ひ、夕方、御柱社に両社の建御柱を行ひ祭礼は終はる。