社伝によると、延喜式内表門神社であり、祭神は天照大御神、倉稲魂命、瓊々杵命の三座にして御崎大明神ともいひ、明治五年に郷社に列せられた。人皇第七代孝霊天皇の御代の御鎮座にして往来は上戸村といったことがある。人皇第七十二代白河天皇の永保元年主上御悩みあらせられし時、たまたま神主上洛中にて、占の名誉、洛中に高く御所に召されて、御占の上祈念の所、忽ち御平癒あらせられ、叡感斜ならず、社頭並に五十一の末社迄御造営の上空海筆になる梵字の文殊画像を御寄進せられ、併せて市川の郷を神領に賜り勅願所と認められ、それより市川明神とも称せられてゐた。現在の市川大門町は社前に続く東西一里を隔てた所にある。上の大鳥居と下の大鳥居の地名は当時を物語るものである。これより後、学びの途の神として、俗謡にも「市川文殊、知恵文殊」と歌はれて今日に至ってゐる。