当社は雄略天皇の御代創立したと伝ふ。社記に云ふ大宮明神を配祀し、天治二年九月甲斐守・新羅三郎義光公国中巡見の折、当所に滞在社殿を建立、以来武田家代々の祈願所となる。大永六年八月武田信虎公より永明奄作の随神像二体及び随神門を寄進される。武田家滅亡の後、天正十年七月二十四日徳川家康公当国入国の折、当社祭礼に当り参詣あり。時の祠官・佐々木大蔵太夫、御供を仕へ奉る。公大いに喜び自から弓矢を執り、この矢の届く限り永代寄附せむと矢を放つと左右各百歩の外に至る。社地の両側にあった矢立といふ地名はこの名残である。家康公は初め社の西方松林といふ所にて祭礼を上覧されたのでここに東照宮を奉斎、今も末社にして現存する。尚この折同村中・池谷家の後林中にある清水より御水をとり家康公に献上された故事に倣ひ近年までこの水を用ゐて御饌、御酒等の調進をしてゐた。