甲斐国志に「社記ニ云、朱鳥年中紀州ヨリ遷シ奉ルト、別当ハ熊野山千手院ナリ。此ノ社ハ南北八代両村ノ鎮守ニテ頗ル大社ナリ」と所載され、遠く奈良朝時代の創建を伝へてゐる。この地は久安年間(一一四五~一一五〇)に、時の国守藤原顕時が熊野本宮社領として八代の荘をたて、寄進された処であり、甲斐国の中でも古い成立の大荘園であった。ところが応保二年(一一六二)甲斐守に任ぜられた藤原顕時が、在庁官人三枝氏らに命じてこの荘園を奪ひ取らうと計り、神社側と争ひを起こし神人に乱暴を働いた。神社では朝廷に国守らの非を訴へ、忠重らは有罪となり処刑された。この顛末を記した文章が有名な「長寛勘文」といはれ、慶安三年(一六五〇)書写されたものが社宝とされてゐる。往古は舟祭と称する勇壮な神事が行はれてゐたが、文政年中(一八一八~一八二九)に中止されたといふ。詳しくは国志に載ってゐる。旧社領三十七石余は明治四年上知される。