甲斐国志によると当時の口碑に伝へる歌に「石和河森の木陰の暗ければ昼も篝を焚く鵜舟かな」とあるやうに市部より四日市場に至る三里(六町一里)の間、当社境内の鬱蒼たる森が続いてゐたと記されてゐる。社記の「創祀は允恭天皇八年秋九月(西暦四一九年)当社は神部の神社にて伊勢大神宮勧請最初の霊場石和総郷の鎮守なり」を裏付けるものと云へる。石和町誌に依ると伊勢神宮の神領、石和御厨は伊勢神宮領で甲斐國で確認される唯一の御厨で有り、外宮(豊受大神宮)領で有ったと記されてゐる。当社は其の御厨内の伊勢神宮分祀社ではなかったかとの記述もある。社記に「当時は当国より伊勢参宮の者は帰国後必ず参詣された事が申し伝へられてゐたが、天下大乱に依り社頭は衰退致し天正十七年(一五八九年)八月洪水の大慌にて社地も砂場と成り神事絶えて三年後に本殿、拝殿共に建立した」とある。境内神社に山神社、道祖神社、蚕影神社、秋葉神社、石尊社が祀られてゐる。