武田神社は、戦国時代きっての名将、武田晴信公(信玄公)を御祭神としてお祀りしてゐる甲州随一の名社である。
御祭神・晴信公は、大永元年当神社の背後に控へる石水寺要害城に誕生され、天正元年四月十二日に上洛の夢半ばに信州駒場で五十三歳の生涯を終へるが、二十一歳の時に国守となって以来三十年余、諸戦に連戦連勝を重ねるのみならず、 領国の経営に心血を注いだ。特に治水工事、農業・商業の隆興に力を入れ、而してこのことから領民にも深く愛され、現在でも県民こぞって「信玄さん」或いは、「信玄公」と呼び慣はして敬慕の情を表し、正に郷土の英雄として誇りともする所以である。
神社の歴史は、大正四年、大正天皇のご即位に際し晴信公に従三位が追贈されたのを契機に、ご遺徳を慕ふ県民に武田神社ご創建の気運が沸き上がり、官民一体となった「武田神社奉建会」が設立され、その浄財によって大正八年に社殿が竣功し、鎮座祭が斎行された。以後、公のご命日である四月十二日には、毎年例祭を斎行、お神輿が四キロ離れた遊亀公園のお旅所まで巡幸し、これに武田二十四将の騎馬武者が供奉する。
鎮座地は晴信公の父君である信虎公が永正十六年に石和より移し信虎公・晴信公・勝頼公の三代が六十二年にわたって居住した躑躅ヶ崎館の旧跡である。館跡には当時からの堀、石垣、古井戸等が残り、晴信公を始め一族の遺構を現在まで伝へ、昭和十三年には国の史跡として指定を受けてゐる。境内は、神社創建の折、県内各所より寄進された数百種類の樹木が四季折々の風景を見せ、中でも「三葉の松」は全国でも珍しく、黄金色になって落葉することから、身につけると「金運」のご利益があると伝はる。又、晴信公ご息女誕生の際、産湯に使用された、名水「姫の井戸」の水には、延命長寿・万病退散の恵みが得られるといふ。
宝物殿は、大正八年のご創建以来全国の武田家関係者よりご奉納戴いた同家ゆかりの遺宝等を展示の為、晴信公四百年忌にあたる昭和四十七年に開館した。
当神社御宝物の白眉は三條家より寄進された「吉岡一文字」の太刀であり、国の重要文化財に指定されてゐる。この太刀は神社ご創建以前の明治十三年の明治天皇本県行幸の際、供奉の三條實美太政大臣が晴信公正室の三條夫人との縁により、神社創建を祈念して奉納された同家伝来の名刀である。更に孫子の旗、晴信公の肖像画や武田二十四将図等も多数収蔵され歴史的、文化的価値が高いと多方面で評価を受けてゐる。
また近年、平成十一年に、祈祷殿「菱和殿(りょうわでん)」平成十八年に、能楽殿「甲陽武能殿(こうようぶのうでん)」が竣功した。