康永二年(一三四三)正月志野正義創立と伝へられる。甲斐国志に「武田氏此の地に居住して一の宮、二の宮を建立し鎮守に祀りける。よりて武田一の宮と称せり。天王壬子年勝頼滅亡の頃共に亡びけるにや、天承二年の棟札に武田丹波守有氏とありて、その後の棟札に載する事なし、館跡方壱町ばかり今に存して草茫々たり、土人は丹波屋敷と称して間田となす。康永元年、永享六年、文明三年、永正五年、天文九年、永禄元年、天正二年、慶長六年、寛永八年、明暦四年、元禄三年の棟札あり。遊行他阿の六字名号板、南無阿弥陀仏奉納甲州一の宮大明神遊行十四代他阿書、永享六年二月二十五日」とある。宝物には古鏡二面と、聖徳太子時代に彫刻と言ふ翁面二個があり、夏早魃の際に宮前原の河原にて水に浸し、雨乞をすれば直ちに降雨ありと伝へられてゐる。明治六年郷社に指定された。祭日の太神楽と西原歌舞伎は今も受け継がれて有名な行事となつてゐる。