今から千百拾数年前、清和天皇、貞観六年(八六四)富士山大噴火があり、是に伴ふ此の地方の災害の様子と共に富士山の神、即ち浅間大神をお祀りした事情が『三代実録』にこと細かに記述されてゐる。之によると当時は富士山そのものを浅間大神の神体山とし、主に駿河国からのみお祭りされて居り、大神の心情として甲斐国からも国の公齋社(公にお祭りする社)祭儀執行を要求したが、官民之を覚ること出来ず、為に大神は噴火に先達ち百姓の病死やら大暴雨、雷雨、其の他濃霧を立ち込ませ山野の別が判らぬ程の凶事を成した上、大噴火を示したが、尚之を悟ることが出来ず、止むを得ず八代郡の擬の大領(今日の郡長に当る職)伴値真貞公(値は当時豪族に与へられた姓)をして神懸の状態となし「我は浅間明神なり。私の希望してゐる事を悟ることが出来ないのでこの様な鎖さ恠を示すのだと、さかんに申し立て一日も早く祝(今日の宮司職)祢宜を任命し神社を建立、我を齋き祀り祭儀をさせよ」と申し立てゐるので、時の甲斐国司、橘ノ末茂公は、真貞公の申し立てゐることが真実か卜筮した処、その申し立てに間違ひなしと判ったので、早速伴真貞公を祝に、同郡の人伴秋吉を祢宜に任じ、八代郡の郡家(郡の役所)以南に祠を建て、明神を齋き祀り、官民挙げて奉謝鎮祭(明神の希望してゐることが察知出来なかったことを謝り、鎮めまつる意)を執り行ったが、依然として噴火が止まないので、国司は使者を遣はし検察するに、せの海を千町歩を埋めたてた程の大噴火で、その神社は富士山と正対した静かな場所に、石造りで色合ひの麗しきこと口では言ひあらはせぬ程の美しさであったので国司は之を朝廷に報告、神祇台帳に登載の上官社に列した、と記述されてゐる。以上が河口の浅間神社御創立に係はる縁起であり、由緒の大要である。
此の『三代実録』は日本国古代史を伝へる六国史の一つで、今より千百年前後の平安時代前期、清和、陽成、光孝の三天皇の時代の出来事を細かに記実した、五十巻の史実書である。前記の記録は、清和天皇の御宇、貞観七年十二月九日の条に明記されてをり、従って当神社の御創建はこの日を以って古来より、創立の日と定められてゐる。
降って醍醐天皇の御代、延喜の制に於て、名神大社に列せられ、平成二十三年文化庁史跡「富士山」構成神社となる。
参考文献『三代実録』『延喜式神名帳』『一宮記』『大日本史』『甲斐国志』『一宮巡詣記』『甲斐叢記』『大日本地名辞書』『帝国地名辞典』『山梨県統計書』が賀茂季鷹の『富士山記』等本社の縁起由緒等を記述した既刊文献を参考迄に揚げたが、古代史を除いて大方は江戸時代以降刊行された史実書であるが、何れも古代当地方の、甲斐国八代郡であったことの認定の上に立ち、本社を式内名神大の社としてゐる。
昭和五十八年に出版された『浅間神社正史』(当時の宮司伴泰著)の中で、近時新発見した、富士吉田市新倉の渡辺一家氏衆の古文書(平安時代か)でも古代当地方を甲斐国八代郡と明記してゐる。
大々御神楽祭七月二十八日(稚児舞祭)