明治十二年十二月、山梨県神道事務局の発議によって、甲府市太田町公園隣接地に招魂社が建立され、西南の役に出征して戦没した本県出身者の御神霊を奉斎し、年々盛大に慰霊の祭典が執行された。明治四十一年甲府連隊創設に伴ひ太田町遊亀公園内に招魂堂を再建し、西南の役以来の戦争で戦没した英霊を合祀した。昭和十四年に山梨縣護國神社創建会が設立され、昭和十七年十二月七日甲斐の古蹟躑躅ヶ崎の南麓において地鎮祭執行となり、昭和十九年十一月二十八日内務大臣の指定があり、山梨縣護國神社が創建となった。同月二十九日鎮座祭が行はれ、明治聖代以来の戦争、事変等で一死報国の誠を捧げた諸勇士の御神霊を招魂堂より奉還し、同月三十日竣工奉告祭並びに例大祭が執行された。昭和二十一年十月十二日社名を山梨宮と変更したが、昭和二十七年十一月十二日再び山梨縣護國神社と改名した。御祭神は西南の役(明治十年)五〇柱、日清戦争(明治二十七年~二十八年)五六八柱、日露戦争(明治三十七年~三十八年)四四九柱、台湾討伐(大正三年)五五柱、満州事変、上海事変(昭和六年~九年)七三柱、支那事変、満州事変(昭和十二年~十六年)一、七八四柱、大東亜戦争(昭和十六年以降)二二、〇六八柱で、合計二五、〇四七柱が合祀されてゐる。昭和二十一年社名を山梨宮と改称した時に合祀した一世の亀鑑、師表と仰がれた民間人八柱は、昭和二十七年境内に摂社山梨宮を創建して祀った。御祭神は加賀美光章命(学者)、志村天目命(心学者)、関戸左近命(郡内の義民)、金子重右ヱ門命、三沢重右ヱ門命(太桝事件主唱者)、長田圓右ヱ門命(御嶽新道開削者)、徳島兵右ヱ門命(徳島堰開削者)、くり女命(節婦)である。又、平成十一年より山梨県出身の殉職自衛官十一柱を合祀してゐる。当神社は皇室の御崇敬も厚く、終戦十年、二十年、三十年の三回天皇陛下より幣帛料の御下賜があった。常陸宮両殿下が昭和四十七年十月十四日御親拝された。元皇族賀陽宮様も戦後三回参拝されてゐる。