第四十三代元明天皇の御代、和銅年間の創建と伝へられる。その頃の甲斐の国中は大半湖水にて、時の国司巡見して湖水が引かば跡地は良き田にならうと、朝廷に奏聞して裁可を得、その上国造神に座します。大己貴命に祈願をこめて、多くの人夫を発して土を起し、鰍沢口を切り開き、富士川より南海に水を落すに成功した。為に湖水の大半が退き今日の如き良田数多を見るに至った。これ偏に御神助の賜と勅命を以て勧請、穴切大明神と奉称、国中鎮護の神と崇敬されるやうになった。又甲府城築城後は甲府城坤方の御門・穴切御門と云はれ人々にも知られ、明治六年郷社となる。一間社流造桧皮葺の御本殿は桃山時代の建築として国宝となり、戦後改めて国の重要文化財と指定された。更に桃山時代建築の随神門にも江戸時代と云ふ美事な彫刻が飾られてあり(甲府市の有形文化財)、正徳五年といふ拝殿は新府の藤武神社に寄進されて今はないが、古社にふさはしい数々の歴史を秘めてゐる。